ひきこもりの大学生

医学部に行ってます。

モデルナワクチンの副作用について

2日前モデルナ製ワクチンの1回目の接種をしましたが、副作用がクソみたいに重いので紹介します。

 まず接種部位の痛みですが、これが1番凶悪です。日常生活で左腕がほぼ封じられます。自転車は片手運転になるし、ベッドでも寝る体勢が限られてきます。これは接種日翌日から今のところずっと続いています。

 あと今朝は頭痛に加え体全身に倦怠感が感じられ、測ってみると37.8℃でした。私は結構体力とか免疫力がない方なので、1回目にあまり発症しない高熱を引き当てた訳であります。そういうわけなのでワクチン接種後の欠席認定を利用して、本日は大学にメール送ってサボりました。実は今日市を跨いで医学部があるキャンパスに行って、グループワークとか発表とか面倒くさそうなことを一日中やる予定だったらしいので、ある意味今日欠席できてよかったです。出席の代替措置がとられるそうですが、多分レポートとかになります。

車校卒業

 本日車校卒業検定があり、合格でした。まあ合格率90%なので落ちる方が珍しいですが、発進する時合図忘れたり赤信号で交差点に取り残されたりした割には受かってました。あとは好きなタイミングで免許センターに試験受けに行けばいいだけなので、夏休み中にやります。これで車校とかもう二度と行きません。車校乙ーwwwwwwwwwww

 

 あとTOEICの結果も見せます。医学部は950点くらいの人もいたのでそれに比べたら雑魚です。ステハゲ目指して頑張ります。

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高速道路キモチェー

 今日、車校で高速道路に乗りました。80km/hを維持して走るよう言われましたが、慣れればなんのことはありません。むしろ他の車に抜かれまくるので100km/hくらい出したかったのですが。

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 この教習は教官1人と生徒2人で受け、前半は私は後部座席に座ってもう片方の人が運転しました。この女がとんでもなくお喋りで、運転中助手席の教官に向かってずっと喋りまくってました。教官は控えめな男性なんですが、この女の対応を最低限の返答であしらっていたため、もはや数十分ずっと女の1人演説を聴いていたようなものです。これでは教官が可哀想なので、後半の私は終始だんまりに徹しました。教官も煩わしいコミュニケーションに割いた労力を回復することができ、これこそwin-winの関係であります。第一私は高速に乗りながら喋れるくらい器用ではないので、話しかけられたら多分相槌くらいしか返せなかったと思います。その点教官は運転のアドバイスだけしか言わなかったので、相槌以外返す必要がなくて楽でした。たまに教習を他の人とやることがあるので、こういうハズレだけは引きたくないもんです。

高齢者施設課題実習

日本では明治時代より教育の機会均等の概念が普及し始めましたが、これは現在となっても十分とは言えない状況です。ここで言う教育格差が、日本国民全員に等しい教育が享受されない状況を指しているものと定義するなら、その達成度は極めて低いと言わざるを得ないでしょう。
まず日本では9年間の義務教育制度のもと、全国民に小中学校における教育を受けることを課していますが、一見平等のようでここでも格差が生じています。例えば、公立と私立の違いがあります。これはペアレントクラシーの概念にも帰結しますが、富裕層などのような家庭もしくは子供の意思により私立小中学校への進学を決める者が一定数いる反面、大半の者は公立の小中学校へ行くことを選択、もしくは経済的背景から余儀なくされることになります。公立小中学校の運営は税金で回っているため、法人が運営する私立小中学校と比べて教育の質が劣ったり、融通が利かなかったりする部分が多くなります。ここでは大雑把に言えば富の所有に応じて公立・私立のカテゴライズがなされる傾向にあり、義務教育の時点で教育格差が始まっているということが言えます。
 次に高等学校ですが、これに関しては義務教育ではないため、一定数高校進学しない者もいます。これらは上記に示した設置区分に関しての格差に加え、各高校が偏差値という指標で分けられているということもあり、メリトクラシーの概念にも帰結します。これは個人の持っている能力によってその地位が決まるというものであり、学力によって高校の偏差値が決まり、その偏差値によって大学受験の対策を含めた受ける授業の内容も変わることも考えれば、それは教育格差であると言わざるを得ません。ただ、ここでは工業系や商業系の高校のように選択的に受ける特殊な教育形態に関して、その如何は問わないものとします。
 ここまでの話を総括すると、教育格差が生じる要因としては、経済的背景と個人の能力の大きく2つが挙げられます。この2つの要素に恵まれれば、将来は社会的・経済的に安定する傾向が高まります。すると、その子孫は同じく経済的に恵まれた環境で過ごすことになり、教育の機会、つまり個人の能力(学力)を伸ばすのに適した環境を獲得しやすくなります。逆も然りであり、経済的・能力的に恵まれない者は代を重ねても低階級から脱却できない傾向が強まると言えるでしょう。これはアリストクラシーの概念に帰結するもので、日本が律令国家であった時代の「蔭位の制」に通じるものがあります。上流階級の子孫は同じく上流階級になるための地盤が予め与えられているというものであり、この個人のスタート地点が平等でない限りは教育格差の是正は困難であると言えるでしょう。多少暴論になりますが、日本国家が各個人で所得を形成していく資本主義という形態にある限り、教育格差は消えないものと考えます。学校法人の廃止や高校・大学の偏差値区分の廃止をしない限り、貧富の差があればこれまでに挙げた教育格差は必然的に発生します(廃止したとしてもそれが社会的・経済的地位に影響しないとは言えない)。かといって所得の再分配を行って貧富の差を無くすような社会主義は愚の骨頂であり、決して奨励されるべきではありません。それこそ為政者がいる限り真に格差が消えることはなく、まず世論がそれを許さないでしょう。教育格差、むしろ格差は人間が人間である限り無くならず、それをどう穏健に対処するかが肝心であるように思います。